大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和56年(あ)233号 決定 1983年12月13日

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人尾崎陞、同鍛冶利秀、同仲田晋、同豊田誠、同須黒延佳、同大熊政一、同内藤雅義の上告趣意のうち、憲法二八条違反をいう点は、原判決の是認する第一審判決の認定した本件被告人らの三菱銀行本所支店に対する行為が、使用者対被使用者という関係を前提とする憲法二八条の保障する権利の行使に該当しないことは、当裁判所の判例(昭和二二年(れ)第三一九号同二四年五月一八日大法延判決・刑集三巻六号七七二頁参照)の趣旨とするところであるから、所論はその前提を欠き、その余は、憲法違反(一三条、一四条、二一条、三一条違反)、判例違反をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張であって、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 横井大三 裁判官 伊藤正己 裁判官 木戸口久治 裁判官 安岡滿彦)

弁護人尾崎陞、同鍛冶利秀、同仲田晋、同豊田誠、同須黒延佳、同大熊政一、同内藤雅義の上告趣意(昭和五六年五月二八日付)

目次

第一点 憲法二八条の解釈・適用の誤り

第二点 憲法二一条および憲法一三条の解釈・適用の誤り

第三点 被告人の行為の認定に関する憲法三一条違反ならびに事実誤認および法令(証法則、経験則)違反

第四点 故意および共謀の認定に関する判例違反ならびに事実誤認および法令(経験則)違反

第五点 可罰的違法性の判断に関する事実誤認および法令違反

第六点 公訴権濫用の判断に関する憲法一四条および憲法三一条の解釈・適用の誤り

第一点憲法二八条の解釈、適用の誤り

原判決は、憲法第二八条の解釈を誤まったものであり破棄さるべきである。

一、原判決は、被告人ら全金浜田精機支部の組合員を中心とする浜田支援共闘会議が浜田精機倒産及び全金浜田が負った五〇〇〇万円の債務に関し、抗議と要請のために行なった本件少額カンパ振込活動は憲法第二八条で保障されている労働組合の正当な活動であり、被告人は無罪である、との弁護人の主張をしりぞけて、被告人を有罪として第一審判決を認容した。

すなわち

労組法上の「使用者」とは、同法の規制趣旨から合目的的に考えても、労働関係の当事者としてこれを発生、存続、解消させ、雇用条件を設定・変更し、労働協約を締結・遵守し、その反面法律上の不当労働行為をなす能力をもつところの、労働法律関係上の権利義務主体を意味するものと解され、例えば、団体交渉の拒否がその「雇用する」労働者団体との関係において労働法律関係上一定の意味をもつことは、労組法七条二号の明定するところなのである。当然名目上の使用者の外に実質上の使用者があるといえるためには、それが労働関係上右に述べたような地位と権能を実質上あわせもつ場合でなくてはならない。

本件の事実関係のもとでは、三菱銀行が被告人らの「使用者」であり、被告人らを「雇用する」ものであるとまでいうのは如何にしても無理である。本件所為について憲法第二八条の保障があるとする所論は前提を欠く。

と判示した。

二、原判決は、雇用する使用者と雇用される労働者との関係においてのみ憲法二八条で保障される労働基本権が存在する、との前提に立つもので、憲法第二八条の解釈を誤まったものである。憲法第二八条が、憲法第二五条で保障される生存権を裏打ちするための、いわゆる生存権的基本権の一環として規定されていることは多言を要しない。すなわち労働力以外売るものをもたない「勤労者」が生存権を充足するために、自主的に行なう団結活動を法認するという意味をもっている。それ故、労働者の自主的な団結活動を保障するところに憲法第二八条の真意があると言うべきである。

従って組合活動の正当性を判断するに当たり、その担手方を狭義の「使用者」に限定するのは誤まりと言わねばならない。

労働基本権は「経済上の弱者である勤労者」に与えられたものであり、これが具体的にあらわれるのは労働契約の締結及びそれを前提として成立する「使用者対被用者」という労使関係においてであるが、この労使関係の中での労働契約の内容及びその存続に影響を与えるのは、「使用者」だけではない。実質的に労働契約に影響を与える者に対しても組合活動を向けなければ、「経済上の弱者」の地位を補強することはできない。

三、近年において、大企業を中心とした経済的支配従属関係が一段と強化される中で、経営の多角化、別会社化など産業構造は大幅に変化し、複雑となってきた。そして、大企業、親企業の下請企業、中小企業、系列企業に対する支配が包括的、構造的、体制的なものになるにつれて、不当労働行為制度上の「使用者」の概念も次第に拡大され、今日では、社外工、下請、系列企業労働者と親会社との間においては、直接の雇用契約上の当事者であるという関係が存在しなくても不当労働行為は成立するものとされてきた。不当労働行為の主体である使用者とは、当該労働者の労働関係上の諸利益に直接的な規制力、支配力を有するものであれば足りるという考え方は、判例・命令において確立されてきたといえる。

四、すなわち、今日では不当労働行為制度を中心に「使用者概念」が拡大され、雇用契約関係上の直接の当事者でなくても、その「使用者」性を認めるべきであるということが確立されたのである。

原判決は、労組法七条二号を例示して「使用者」を狭く解釈し、三菱銀行に対する組合活動を否定した。

しかし、不当労働行為の相手方としての当事者適格をもつ「使用者」と、団体交渉の相手方としての「使用者」と、組合活動の相手方たる「使用者」と、すべて同内容のものとみることはできない。

不当労働行為制度は、団結権侵害を排除してこれを救済するためには、だれを救済命令の名宛人にしておくのが効果的な法的救済として十分であるかということできめられているにすぎない。その不当労働行為制度上の「使用者」の概念にしても前述の如く「雇用契約」の存在にとらわれずに実質的に考察されているのである。

労働者の生活利益の擁護にとって必要不可欠な行動=団結活動は、使用者との団体交渉にかぎられない。国や地方公共団体の施策によっても労働者の生活条件は直接、間接に大きな影響をうけるし、大企業を中心とした経済支配機構が再編強化されるにつれて、下請、系列、中小企業の経済活動は大きく制約され、労働者の労働・生活条件も影響を受けざるを得ない。そのため、労働者の団結活動は、本来の狭義の使用者にむけてのみならず、労働者の生活に重大な影響力を与える国、地方公共団体、親会社、取引先、金融機関、大口債権者等の各方面に及ばざるを得ない必然性がある。そのいずれの場合であるとを問わず、その要求が団結目的に不可避的に必要な行為と目される以上容認しようとするのが憲法第二八条の労働基本権保障の規定であると言うべきである。

従って、団交要求を受けた相手方がこれを拒否することで不当労働行為が成立するか否かと、相手方に対する行動が組合活動とされるか否かは、別の角度でとらえられねばならない。

五、このような観点に立って浜田精機の労働者と三菱独占(三菱重工・三菱銀行を総称する)との関係をみると、浜田精機の労働者の本件少額カンパ振込活動は、憲法第二八条の保障する組合活動と言わねばならず、これにより相手方たる三菱銀行が一定の不利益を受けてもこれを受忍しなければならないものであると言うべきである。

(1) 浜田精機を倒産させたのは三菱独占である。

そのため浜田の労働者は、解雇通告を受け労働契約を破棄され、生活の基盤を奪われたのである。

一九七一年八月頃、浜田精機の本田会長(東京ガス社長)は三菱重工の牧田社長、早川種三(三菱関連企業の会社再建を手がけて再生管財人を歴任してきた)と会談し、牧田社長の意向にそって浜田精機を更生会社とすることにきめ、管財人として金子吉五郎を送り込むことを決定した。この決定は、浜田精機の中野社長が全く関知しないところで決められたのである。この経過を第一審での菊地証人、金子証人、原審での中野証人の証言からみると、はっきりする。中野社長がなんとか会社をもり上げて行こうと懸命に努力しているのを横目にみて、その巨大な実力を背景に中小専業メーカーの印刷機のシェアを侵食して浜田を苦境におとし入れた三菱グループが、ほしいままに浜田の将来を決めて行ったのである。

そして、まず三菱銀行に融資をストップさせて、その資金繰りを圧迫した。当時中野社長は韓国との四億円の取引の仮契約を結び丸紅から五億円程度の融資を受けて、これを遂行しようと努力しており、この実現も間近かと思われていた。

この三菱銀行の融資ストップで、韓国との契約が間に合わず、牧田社長らは中野社長に詰め腹を切らせるように辞表を書かせ、独断で会社更生の申立てをしたのである。

以後、三菱の意を受けた金子吉五郎が浜田精機から創業者一族を追放し、自ら形式的にも実質的にも浜田精機で権力を振うようになったのである。

三菱独占は、その後も浜田の工場を調査したり技術者を呼んだりして、浜田精機の内容を詳しく入手して、全金傘下の組合が存在する限り浜田精機は、完全に倒産させた方が得策と判断したのである。

そしてその意を受けた金子管財人は、東京工場を処分し柏工場に集結して更生計画を立てるという方針を立てながら、その実行をさぼり、再び三菱銀行に浜田精機の不動産に担保をつけて倒産への準備をととのえたのである。ここで直接の引金は、三菱銀行が融資をストップすることで引いたのである。

(2) 三菱独占のこのような行為により浜田精機は、更生廃止から破産宣告へと進まされたわけであるが、法的にも営業継続又は和議による再建の道は残されていた。

そして、それは従来の経過から言って三菱の意向を抜きには実現不可能であった。

第一勧銀は、三菱銀行の方針に同調することはかねてから明言していた。

担保余力の関係から言っても三菱・第一勧銀は十分融資しうる状況にあった。

従ってこのような関係にあるとき、浜田の労働者が団結の基礎たる企業の存続に関し、三菱銀行に交渉を申入れ、かつこれに附随して団体行動にでることは、団結権の行使として当然のことであり、憲法第二八条により保障された権利と言わねばならない。

(3) 五〇〇〇万円の約束手形問題にしても組合は三菱銀行のため大きな負債を背負うことになったのである。

一九七三年の暮に浜田精機は、全金浜田を通じて東京労金から一億円を借入れ、同額の約束手形を振出し交付した。この約束手形振出も、支払場所である三菱銀行の同意がなければできないものであった。この手形に全金浜田は全金本部と共に保証した。この時、三菱銀行は既に翌年四月以降の融資ストップを決めていたので、この手形が決済できないことを予想していた。もちろんこのような事情は浜田労組は知らなかった。このうち五〇〇〇万円は決裁できたが、残金五〇〇〇万円については延期を重ねながら六月二九日の支払期日となった。

この時、三菱銀行は、期日を延期すればあたかも決裁できるかのように装って東京労金を騙まし、この手形を依頼返却させたのである。三菱銀行は既に金子管財人と共に「精算を内容とする更生計画案」をねっていたのであるから、延期した手形が決裁できないことは十分承知していた。三菱銀行は、この約束手形が六月二九日の期日に依頼返却されなかったならば、自ら追加融資してこの手形を決裁しなければならなかったのである。

三菱銀行と金子管財人は、「清算を内容とする会社更生案」を裁判所に提出するまでは絶対浜田を不渡事故による倒産へともって行くことはできなかったからである。三菱銀行は五〇〇〇万円を追加融資しても十分担保される範囲であった。五〇〇〇万円の手形が決裁されずに破産となったため全金浜田は、東京労金の預金(闘争資金)を凍結され、全金浜田のみならず、上部組織である全金東京、全金東部地協も労金からの資金借入れに支障を来たしたのである。

(4) これらの事情を勘案すると、三菱銀行は浜田精機の労働者の労働条件及び団結の基礎に実質的影響を与え、かつ、今後の方針についても実質的決定力をもっていたものと言うべく、浜田の労働者は、その生活と権利を守り団結を守るためには三菱銀行と交渉を避けることはできなかったのである。

原判決も「浜田精機が遂に破産宣告にまでいたった直接の原因は、三菱銀行が昭和四九年四月以降同社に対する融資をほとんど打ち切ったことにあると認められるし、また、所謂労働金庫手形との関係でも、右銀行の融資を得られなかったため浜田精機においてこれを決裁することができず、ひいて浜田労組において約五〇〇〇万円という巨額の債務を背負い込む結果になったものである」と認めているところである。

この認定事実の上に立てば、三菱銀行を相手方として組合活動を行なうことは憲法第二八条で保障されているものと言うべきである。

(5) 組合が憲法により保障された組合活動を行う場合、他の法益と牴触することがあっても、暴力の行使を伴なう等の正当な組合活動の範囲を逸脱する行動がない以上その違法性を問われることはない。

原判決は、組合活動は雇用する使用者に対するものと狭義に解釈し、本件少額カンパ振込活動が憲法第二八条に保障された組合活動として正当性の範囲内にあるか否かについて判断することなく、三菱銀行は雇用する使用者に到底当らないとして、組合活動であることを認めなかったものであり、憲法第二八条の解釈を誤まったものであり、破棄さるべきである。

第二点憲法二一条および憲法一三条の解釈・適用の誤り

一、原判決は、「憲法一三条、二一条は、犯罪を組成する行為につき、集団的行動であるというだけの理由で違法性を喪失、減弱させることを認める規定ではもとよりない。」と判示する。

しかし、原判決の判断はむしろ、「集団的行動であるというだけの理由で違法性を」増強、付与したものである。

二、原判決も認めたように「浜田精機が遂に破産宣告までいたった直接の原因は、三菱銀行が昭和四九年四月以降同社に対する融資をほとんど打切ったことにある」し、また「労働金庫手形との関係でも、右銀行の融資を得られなかったため浜田精機において約五〇〇〇万円という巨額の債務を背負い込む結果になったものである。」そして、この債務を背負い込むことになった結果被害を受けたのは、ひとり浜田の労働者のみならず、全国金属の労働者全般に及んだのである。(第一審石川証言、原審吉田証言)そして、三菱銀行の行為によって「職を失し、それまでの収入の途を絶たれる等、生活上に甚大な影響を蒙る労働者が、融資再開のため交渉を求め、或は銀行側の一連の対応を不当として抗議しようとすることそれ自体はいわれのないことではなく、その反面、銀行側においては社会通念の範囲内でその忍受を求められる場合もある」のである。

問題は、原判決のいう社会通念の内容として集団的行動の自由がどこまで保障されなければならないのかということにある。そのためには、現代における集団的行動の意義と、本件行動の具体的内容の両面から見ることが必要である。

三、憲法が憲法二一条において「言論、集会、結社の自由」を認めたのは、単に議会制民主主義の基礎を提供してその結果、最終的に「国民の幸福、自由、生命に対する権利」を保障しようとしたことのみならず、憲法の基本的価値である人権を侵害するものに対して被害を受けた者が集会して直接に行動する権利を与え、その結果国民の基本的権利を保障しようとしたことも併せて含むと言わなければならない。

とりわけ現代の社会の複雑化、科学技術化等の進展により、国民の人権を侵害するのは、ひとり国家のみではなくなって来ており、又、権利侵害も多様化して来ている。その際、権利を侵害される被害者は、弱者である労働者であり中小企業であり、消費者であり、住民である。

他方、加害者は多くの場合、資本と、情報と、科学技術を独占する大企業であり、企業グループである。これら大企業や企業グループは、その圧倒的な力を背景として最も有力な議会に対する圧力団体として存在し、議会制民主主義の機能を弱体化させ、そして議会が権利侵害の多様化に対応できないこともこれに加わって多くの憲法学者、政治学者の指摘するように立法府による国民の権利保障の機能を形骸化させているのである。

ここにおいて弱者たる国民は、自らの侵害された権利を回復するため、団結して起ち上がり、加害企業に対し集団的行動を取るに至ることは、むしろ当然のことである。各地で公害反対運動や、消費者運動が起り、更に同一企業の枠内を超えた総行動方式による労働運動の進展がみられたのも、このような契機からである。そして、議会制民主々義の形骸化が進む一方、集団的行動の自由の保障の重要性が増している今日、憲法の砦たる裁判所、とりわけ最高裁判所に与えられた集団的行動の自由を保障する使命は極めて重大である。何よりもここでは各種の刑事事件を含む具体的争訟において、憲法の基本的価値、即ち個人の尊敬と基本的人権に忠実であることが求められているのである。

従って加害者は誰であり、被害者は誰であるのか、そして集団的行動の自由によって保障される価値と、侵害される価値とを比較し、いずれが憲法の基本的価値にとって重要であるのかを絶えず検討することが、今裁判所に求められているのである。これこそが憲法体制下における裁判所の「社会通念」の判断の基礎とならなければならない。

四、それでは本件において、集団的行動の自由はどのような保障されなければならないであろうか。

(一) まず、被害者が誰で、加害者が誰であるのか、これを検討してみる。

本件においては、三菱重工の印刷機業界への進出という私的な利益追求のため多くの中小印刷機企業で働く労働者の職が奪われ、とりわけ、浜田精機については、三菱重工と同一企業グループに属する三菱銀行によって前述のような原判決が判示した行為が行われたことに加え、三菱の手によって浜田精機支配か浜田とり潰しかの調査が行なわれた上で、経営者すら知らないうちに会社更生の申立てが行なわれて金子管財人が送り込まれ三菱の市場独占の野望から浜田は最終的に破産させられたのである。

(浜田に会社更生、破産の必要性のなかったこと及び、そのきっかけとなった三菱銀行の融資ストップの犯罪性については、浜田争議の解決内容から見て明らかである。)

その結果浜田の労働者の受けた生活と権利の破壊の実態は、原審で取調べた組合機関紙「だるま」を見れば明らかである。浜田の労働者は歯をくいしばって、三菱資本の不正義と闘い続けたのである。

これらの事情から明らかなのは、三菱銀行が加害者であり、浜田の労働者は生活と権利を侵害された被害者であるということである。

(二) それでは、三菱銀行が本件少額預金振込行動によって侵害されたものは何であろうか。

たしかに多数人が多数回にわたって少額の預金振込を行うことによって銀行が日常の業務に比して多少の不利益を受けるかも知れない。しかし、浜田の労働者、その家族、更には、全国金属労働者の受けた被害、即ち権利侵害に比べればとるに足らないものである。

又、多少の騒がしさが起ったにしても、他人の身体等、保護されるべき権利を侵害したり侵害しようとしたわけでもないのである。そして、この多少の騒しさを伴うこととなった振込用紙の交付を一回につき一枚に制限すると、新規口座開設の拒絶、警察官のフラッシュ撮影等はいずれも後述のように観察と三菱銀行が挑発のために準備、少なくとも予期したものであって、権利侵害は仮にあったとしても極めて軽微なものなのである。

(三) 更に本件振込活動に至る経過はどのようなものであったであろうか。三菱銀行が浜田の労働者の要求を開き、そしてこれを受け入れるなら集団的行動の必要も少ないであろう。

ところで浜田の労働者が当時三菱銀行に求めたのは労働金庫手形いわゆる五〇〇〇万円手形についてのいわゆる「四者会談」の開催とそこにおける右手形依頼返却に至る事実関係の確認と事後処理の問題であった。

これは、浜田の労働者、その家族とこれを支援する全国金属の労働者が三菱銀行から受けた仕打ちに比較すれば本当にささやかな要求であった。

そしてこの要求に当って当初から少額預金振込活動を行ったわけでもない。本所支店が当初、浜田の労働者のこの要求を認め本部においても一旦承諾する素振りを見せながら、結局約束を反古にした経過を忘れてはならない。

ここに至って浜田の労働者は右に掲げた要求実現のため昭和五一年一月から三菱銀行本所支店に対し、少額預金振込カンパ活動をはじめたのである。

ささやかな誰でもが当然と思う要求を、重大な権利侵害を受けた者が加害者に求めるとき、加害者がこれに応じない場合、その被害者が弱者であればある程集団的行動する自由が与えられてしかるべきであろう。

これすら認められないとすれば、集団的行動の自由保障の意義の大半は失なわれてしまう。

(四) 原審弁論でも引用した吉田書記長の原審証言を掲げる。これこそが、被告人らが三菱銀行に求めたものであり、浜田の労働者の叫びなのである。

「私たちはですね。好きこのんでこんなことをしたわけではないんですよね。労働者、それからその家族、これはもう本当に弱い立場なんですよね。職を奪われた労働者というのは……。自然に企業がやっていけなくなってつぶれたならばともかく、経営者の知らない間に、更生会社にしちゃうような、そういうやり方で無理矢理つぶされて、そのために職場と生活をうばわれた労働者に、しかも、まわりのまったく関係のない地域の労働者にも迷惑をおよぼすようなことをやって、その問題について話合もしないような三菱銀行に対して、私たちが押しかけていく、これはもう当り前だと思います。ほかに、何のやりようがあるんですか。

別にそんなところに行きたくないんですよ。しかし私たちの意思を、みんなの意思を、どうやって明かにしていくのかっていうことですよね。怒りをどこにぶつけていったらいいのかという点で、私たちは、もう、最低限度ぎりぎりの、許される範囲のぎりぎりのところで、抗議をしてきた」と。

五、本件において今、憲法の砦としての最高裁判所に求められているのは、生活と権利を侵害された浜田の労働者の立場に立ち、集団的行動の自由を保障することである。加害者は三菱銀行であり、被害者は浜田の労働者である。本件では被害者が起訴されたのである。憲法の基本的価値に忠実であろうとすれば、浜田の労働者、家族の権利確保のため集団的行動の自由を保障せざるを得ないであろう。

三菱銀行の数分の業務が、浜田の労働者とその家族の数年にわたる生活よりもなお保護さるべき価値があるとは到底言えないであろう。

原判決は、加害者と被害者をとりちがえ、集団的行動の自由の保障の意義を全く理解することなく、集団的行動であるが故に、違法性を増強付与したのである。これは、原判決が「多人数による少額預金振込という行為を共同して実行すると共に共通の目的で参集し、かつその実行を始めた」ことを共謀の基礎事実としていること一事からも明らかである。最高裁判所が憲法に忠実であろうとするなら、原判決の破棄は免れないものと思料する。

第三点被告人の行為の認定に関する憲法三一条違反ならびに事実誤認および法令(証法則、経験則)違反

一、原判決は、被告人の行為のうち、被告人自身のなした発言については、一審判決に被告人の行為として摘示された「罵言」のすべてが被告人のものである訳ではないとする正しい判断を示しながら、被告人がカウンターを叩いたか否かについては、結局一審判決と同様の誤りを犯している。

原判決は、ビデオテープの画像と音とを根拠として、第一に「被告人が右手に紙束を持ち、これを町田一夫の前のカウンターに打ちつける動作とその音とが明瞭に認められる」とし、第二に、その少し前の時点において「被告人が右腕の肘から先を振り上げて同じくカウンターに振り下す動作と、恰もこれに符節を合せて生じた硬質の打撃音とが録音されている」として、「右のような動作が少なくとも二回あったという客観的事実自体は疑い得ないのであって、被告人がカウンターをたたいたとする原審関係証人の供述は、これらの動作をとらえていうものと認められる」と述べ、結局このことを拠り所として、被告人が数回手でカウンターを叩くなどした旨認定した一審判決を是認しているのである。しかも原判決は、一方で弁護人の指定した重要な諸事実、即ち、硬質の打撃音に酷似するスタンプ活動もビデオテープに録取されていること、

被告人のカウンターを叩く動作が一六ミリ写真中に写されていないこと、証人町田一夫も被告人がカウンターを叩いたことを記憶していないこと、被告人がカウンターを叩いたとする関係証人の証言には誇張がみられることなどをも認めており、それにも拘らずなお右のような結論に到達しているのである。

二、確かにビデオテープを見ると、被告人の手にしていた紙の先端が、手の動きにつれてカウンターに触れている箇所(原判決が「打ちつける動作」としているのは見誤りである)ならびに被告人が斜め上にのばした腕を宙に浮かしたまま、手の先の方を上下動させている動作(原判決が「カウンターに振り下ろす動作」としているのも見誤りである)とほぼ同時に「バン」という音が録音されている箇所が客観的に認められることは事実である。

しかし、これらの動作を、被告人がカウンターを叩いたとする関係証人の供述に直ちに結び付けるのは早計のそしりを免れない。

そもそも、ビデオ画面を見れば明らかなように、手にしていた紙の先端がカウンターに触れている動作は、カウンターを叩いたり、カウンターに物を力まかせに打ちつける動作とは明らかに異質のものであるし、腕を宙に浮かしたまま手の先の方を上下動させる動作も、カウンターに手を触れているものではなくカウンターを叩く動作とは明らかに別個のものであって、これらの動作は寧ろ、被告人がカウンターを叩いていないことを示しており、被告人がカウンターを叩いたとする証言が事実を故意に歪曲しているか、或いは事実を見誤っていることを逆に裏書しているのである。被告人の手の上下動にたまたま、「バン」という音がほぼ重なっているとしても、それは偶然に別の所で発生した音が録音されているに過ぎないものであり、当日店内で度々聞こえていたスタンプ音である可能性が強いのである(原判決自身も前記のとおり硬質の打撃音に酷似するスタンプ音がビデオテープに録音されていることは認めている)。

このように、被告人が数回手でカウンターを叩いたとする一審判決を是認した原判決には重大な事実の誤認がある。そして、被告人の行為として認定されている事実のうち、カウンターを叩いたとする事実は、威力業務妨害罪の成否に影響するところ大であるので、右の事実誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものといわなければならない。

三、また原判決は、右に述べたような動作が少くとも二回あったという客観的事実自体は疑い得ないとして、これらの動作が真にカウンターを叩いたものであるか否かを客観的に検証しようとしないまま(原判決自身も右腕を振り下ろす動作に符節を合せて生じた打撃者がカウンターを叩いた音であるとは直ちには断定していない)、これらがあたかもカウンターを叩く動作に似かよっており、或いは、カウンターを叩いている動作ではないかと疑われることから、その動作を被告人がカウンターを叩いたとする証言に結びつけ、そこから右証言を真実と判断して一審判決を是認しているのである。

四、この事実認定のあり方は次の点において破棄を免れない。第一にもともと本件においては、被告人がカウンターを叩いたか否かに関して、全く相反する証言が存在していたし、カウンターを叩いたとする証言もその内容がまちまちであったため、当日の状況を客観的に記録しているビデオテープを客観的、科学的に分析する必要があった。このために一審では、中島鑑定が採用されたものであるが、これによれば候補打音として検出された音を分析した結果、手拳でカウンターを叩いた音は録音されていないことが明らかとなった。ところが一審判決は、候補打音以外にカウンターを叩いた音がないとは言えないとする恣意的な判断のもとに、ビデオテープの画面と音とを根拠として、被告人がカウンターを叩いたと認定したのである。そこで弁護人は原審において、さらに候補打音以外に被告人がカウンターを叩いたのではないかと疑われる音について、それが手拳でカウンターを叩いた音であるか否かを解明するための再鑑定を申請したのである。このような審理経過に鑑みるときは、当然この再鑑定を採用して、疑わしい音について真にカウンターを叩いた音であるか否かを客観的、科学的に検証すべきであった。即ち本件においては、既に中島鑑定によって少なくとも候補打音として検出された音については、カウンターを叩いた音ではないことが明らかとなっており、他方カウンターを叩いた音に似たスタンプ音がしばしば録音されていることもまた明らかになっているのであるから、カウンターを叩いたように見えるとか、そのように聞こえるとか、いうことのみをもってしては、到底カウンターを叩いた音であると断定することはできないのである。従って恣意的な判断を避け、客観的な事実認定を担保するためには、右再鑑定を採用するのが正しい審理方法なのである。それにも拘らず、原判決が再鑑定を採用せずに、被告人の手の上下動とほぼ同時に録音されている音がカウンターを叩いた音であるか否かを科学的に検証しなかったのは、採証法則に著しく違反しており、審理不尽のそしりを免れない。また、かかる再鑑定による科学的な検証を終ることなく、ただ漫然とカウンターを叩いたと疑われる動作の存在と、これとほぼ同時に録音されている打撃者の存在のみをもって、結局被告人がカウンターを叩いたとする根拠にしているのは、著しく経験則に違背している。このような事実認定は、科学的な鑑定によってカウンターを叩いたと思われる音も必ずしもそうでないことが具体的な例で明らかにされているにも拘らず、ただ目で見、耳で聞いてそう思われるということのみを根拠に事実認定をしているものであって、経験則上到底是認されるものではない。

この審理手続ならびに事実認定の方法は、被告人の行為の認定について決定的意味を持つものであるから、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違反であり、これを破棄しなければ、著しく正義に反するものといわなければならない。

五、第二に、右のような審理手続ならびに事実認定の方法は、適正手続を保障した憲法三一条に違反するものである。

言う迄もなく、刑事手続においては、被告人は無罪と推定される。このことは憲法三一条における適正手続の保障に含まれるものであり、またその余の刑事手続に関する憲法の各条項からもこの趣旨を窺うことができる。従った裁判所は事実認定をなすにあたり、科学的な根拠をもって被告人の行為の存在について合理的な疑いを容れる余地がある場合には、証明はなお不十分であるとしなければならず、そのような合理的な疑いにつき真偽を確定させるためにさらに審理を尽さなければならないのである。しかるに、原判決のように、科学的な鑑定結果によって、カウンターを叩いたと疑われる音が、必ずしもそのような音でないことが示されているにもかかわらず、ただ目と耳で確認してカウンターを叩いたのではないかと思われる音をもってそのような音だと断定しているのは、憲法の求める審理手続ならびに事実認定のあり方に反していると言わなければならない。本件の場合に憲法の要請するところに従って審理を尽すとすれば、是非とも弁護人が原審において申請した再鑑定を採用しなければならないのであって、このような科学的、客観的な検証を経ることなしに、ただ人の主観のみに頼って恣意的な事実認定をすることを排除しようとするのが、憲法三一条における適正手続保障の一つの意味だからである。

第四点故意および共謀の認定に関する判例違反ならびに事実誤認および法令(経験則)違反

一、第一審判決および原判決は約九〇名の当日参加者全員の共謀による犯罪と認定している。被告人らの行為は何ら犯罪となるものではないが、仮りに百歩譲って一部の者の行為が犯罪行為として非難されるものであったとしても全員の共謀による行為とするのはあまりに恣意的であり、構成要件の分析を怠った安易な認定といわざるをえず、従来の判例、および経験則に反するものである。

(一) 事実共謀がなかったことは原判決(五丁表五~六行目)も認めるところであり、あるとすれば現場共謀による行為ということになる。従って威力業務妨害についての共同実行の意思と共同実行の事実が犯罪が成立するためには全員について必要である。

(二) 共同実行の事実について

共同実行の事実が全員について存しないことは原判決も認めるところである。単に実行行為を分担していないというばかりでなく、ソファーに腰かけて隣の者と世間話をしたり、振込用紙の記入に夢中になっている者や銀行から退所している者もおり、また、単に様子をながめていたにすぎない者もいるのである。

(三) 共同実行の意思について

被告人ら当日参加の組合員らは多人数で少額振込もしくは預金という合法的・正当な行為をしようという認識はあったにせよ、喧騒状態を創出し、ましてそれにより業務を妨害しようなどとは全く予期せず、また銀行側や警察の当日の対応も予測していなかったものである。従って一部の者の「喧騒行為」を利用しようとした意思は全く存しておらず、「喧騒状態」についても「相互に了知認識していた」などとは到底認めることはできないのである。これらを全員が「了知認識」していたとする証拠も全くみられず、単なる恣意的な強引な推測にすぎないのである。

ましてや前述のように組合員らの中にはソファーに腰かけ隣の者と話をする者、単に様子をみていた者、振込用紙を書いている者、銀行外へ退出する者などがいたのであって、原判決のいうような「喧騒状態の動機・誘因となった銀行側や警察官の行動に対する不服、怒り、抗議の念は参集者のほぼ全員について共通に抱懐されたものであったと推認される」ということではない。全員について共通にもっていたとする点についても何らの証拠なしに認定をしていると断ぜざるをえない。また、原判決のいうように「多人数による少額預金振込という行為を共同して実行する共通の目的で参集し、かつその実行を始めた」という基底が存し、また、「喧騒状態」を認識し、「銀行や警察官に対し不服・怒り、抗議の念を共通に抱懐」していたとしても、これをもって直ちに「実行」していない者について他人の行為を利用しようとしたとの犯意の認定をすることはできない。さらに、「制止ないし抑制」行為にでなかったことをもって犯意および共謀の事実を認定することは許されるべきではない。単に他人の「犯行」を認識しているだけでは共謀とはいえないのである。(最判昭和二四年二月八日刑集三巻一一三頁)被告人ら組合員間には明示的にも黙示的にも威力業務妨害についての共謀および故意は存しなかったのである。この点について前にも述べたとおり、本件では当日の銀行側・警察の対応が被告人らにとっては突発的、偶発的なものであり、予想しなかったものであった事実はきわめて重要であり、「争議の際に組合員らによって行なわれた不法監禁が、被害者の偶発的な失言から発したものであるばあいについて共謀にもとづくものとはいえない」とする判例(広島高判昭30・7・9裁特2・15・759)も存するのである。

多人数による少額預金振込行為をしようとし、これをしたという事実が存したとしてもこれをもって直ちにその後になされたそのうちの者の「一部の行為」を全体の行為ととらえるのは行為共同説的立場に立つならともかく、構成要件的にとらえるなら、きわめて危険な認定であり、誤りといわねばならない。

二、原判決の故意および共謀に関する認定は集団的に行動した場合にはその行動自体は正当で合法的なものであったとしても「その一部の者が犯行に及べば」他の者はこれを制止、あるいは抑制しない限り、それが他の者にとって予測しえない行動であったとしても共同正犯とするというものであり、集団行動自体を危険視するきわめて不当、違法なものである。

原判決は経験則に反し、従来の判例理論をも逸脱したものであり破棄を免れないものである。

第五点可罰的違法性の判断に関する事実誤認および法令違反

一、原判決は、可罰的違法性の判断をするにあたり、まず、<1>浜田精機が破産宣告をされるに至った直接の原因が、三菱銀行の融資打切りにあったこと、<2>その結果、浜田労組が巨額の債務を負担させられたばかりでなく、個々の労働者は職を失い収入の途を断たれるなどして、生活上甚大な影響を蒙ったこと、<3>したがって、このような立場にある浜田労組や浜田の労働者が三菱銀行に対し融資再開のための交渉を求め、あるいはその不当性に抗議することは、「それ自体はいわれのないことではなく」、<4>その反面、三菱銀行は社会通念の範囲内でその忍受を求められる場合もある旨、明確に判示している(七丁表最終行から八丁表一行)。

(一) 右判示部分のうち、とくに<1>の部分については、すなわち浜田精機の倒産に果した三菱資本の役割については、極く一部分だけを認定しているに過ぎないという意味において、重大なる事実の誤認があるといわなければならない。

すなわち、原判決は証人中野登良治(原審)、同金子吉五郎(第一審)および同菊地耕作(同)などの各証言に虚心に耳を傾けるならば、単に前記<1>の事実にとどまらず、(イ)浜田精機の運命を決して会社更正の申立が、そもそも当時の浜田精機経営者をつんぼ桟敷においたまま、不法にも三菱独占資本の手によってなされたこと、(ロ)そのあげく、管財人としては三菱独占資本の意を体した金子吉五郎がおくりこまれたこと、(ハ)当の金子管財人は会社を更生させるべき職務を怠り、その結果、三菱銀行の融資打切りとあいまって、浜田精機を遂に破産に追に込んだという、三菱独占資本の企てた一連の冷酷無比なる策謀を正しく認定できた筈である。

(二) しかし、原判決といえども、前記<1>ないし<4>の判示部分の(一)で述べたごとき重大なる事実誤認は別として、破産により職場を失って生活を破壊された浜田の労働者や、巨額の債務を背負わされた浜田労組が、破産の直接原因をつくった三菱銀行に対し、融資再開のための交渉を求め、あるいは銀行側の一連の対応を不当として抗議すること自体は、いわれのないことではないとして、要求や抗議の行動の動機および目的の正当性を認め、その反面、三菱銀行の側には、社会通念の範囲内において、これを忍受して、社会的責任を果たさなければならないことを正しく、かつ明確に判示せざるを得なかった。

二、ところで、原判決は、浜田の労働者の五回にわたる「少額預金振込等」の集団行動が、前述のごとく正当なる動機と目的のもとになされた抗議行動であることを当然の前提として、「本件における問題は、その要求なり抗議なりが威力業務妨害罪の構成要件に該当するまでにいたった場合、なおかつ社会通念上許容される限度内にあって違法でないと認められる具体的事情があったかどうかである」といい(八丁表一行から同四行)、その威力業務妨害罪の構成要件に該当する行為を、本件「少額預金振込等」行動の過程において生起した「本件喧騒行為」であるとして、その可罰的違法性の判断を試み、その結果、可罰的違法性を認めるのである。その判断の経過をたどってみよう。

(一) 原判決は、まづ「本件の喧騒行為は、当日の銀行側の新規対応に触発され、これに対する不服、抗議の表明としてなされたものであるから、その新規対応の当否如何が喧騒行為の当否の判断に大きい意味をもつ」として(八丁表五行から八行)、当日における銀行側の「新規対応」なるものを、可罰的違法性を判断する際の最も重要な事情としてとらえている。

(二) しかし、原判決がいうところの「新規対応」なるものは、要するに、従前四回に及んだ「少額預金振込等」の集団行動に対する対応を極端に変更して、少額預金振込を一人一回に限り、かつ新規口座の開設を断るという対応を意味するにとどまるのであって、一・二審を通じて、弁護人が強調してきた本件当日における銀行の対応のきわだった異変は、単に原判決がいうところの「新規対応」につきるものではない。

原判決がいう「新規対応」なるものは、銀行の新らたな対応の一部であって、原判決は、次に指摘するごとき、新らたな対応を看過している。

(三) すなわち、原判決は、銀行側の新らたなる対応として、次なる事実を認定すべきである。

(1) 四月二八日に行われた「少額預金振込等」の集団行動後の五月初旬ころ、本所警察署の内田警備課長が支所支店側に威力業務妨害として刑事責任追及の必要性を話したこと。

(2) 五月二六日には第五回目の「少額預金振込等」の集団行動を予想して、支所警察署では約四〇名の警察官を待機させたこと。

(3) 翌五月二七日には、本所警察署側の要請もあり、本所警察署に、三菱銀行本所支店の佐々木支店長、平井総務課長の両名が訪れ、本所支店長、本部総務部長連名の警備要請書を提出したこと、および右警備要請書には警察の事後捜査、すなわち刑事裁判に向けての証拠収集の協力がうたわれていること。

(4) 従前は、集団行動当日に本所支店から本所警察署に電話での警備要請が行われていたのに過ぎないのに、本件当日は、平井総務課長自らが訪れて「警備要請書」どおりの警備を要請していること。

(5) 内田警備課長が部下に検挙方針を指示し、刑事裁判を前提とするとしか考えられない採証活動(録音、カメラ撮影)を指示していること。

(6) 四月二八日までは、警察官三名前後を内偵のため中へ入れていたのに過ぎないのに、本件当日は、私服警察官九名を店内に派遣していること。

(7) 三菱銀行側も、四月二八日までは警備員七名前後であったのに、当日は本部の協力を得てその倍以上の警備員を配置したこと。

(8) 浜田労組員が店内に入ったのは制服警察官の指示にもとづくこと。

(四) 右に指摘した銀行側の新らたなる対応、すなわち警察と事前に周到なる連絡・協議を重ねた結果、新らたな対応をもって臨んだことを、原判決が正しく認定するならば、原判決がいうところの「新規対応」なるものも、警察との連絡のもとになされた新らたな対応の一環であって、「それなりに合理的な業務関連行為だといわなくてはならない」などとは到底評価することはできないし、ましてや当日の銀行の対応や警察官の行動に関して「本件当日の銀行側の対応には本件所為を正当ならしめ、もしくはその違法性を減弱せしめる事情という意味での挑発があったとすることはできない」(九丁裏九行から一〇丁表一行)とか、「犯罪が発生したと考えた警察官が採証のため写真撮影をすることは適法正当な捜査活動である」(一〇丁表三行から五行)などとの判断を遵きだすことは到底できない筈である。

(五) 結局、原判決は、可罰的違法性の判断にあたり、まづ、いわゆる小前提としての、本件喧騒行為の際の具体的事情の認定に関し、重大なる事実の誤認をおかし、その誤認は判決に影響を及ぼすものである。

三、以上一・二において述べたところは、原判決が可罰的違法性を判断するにあたり、いわゆる小前提とする事実を誤認した点に関するものであるが、原判決はそれにとどまらず、次に述べるとおり、いゆわる大前提である経験法則の解釈を、したがってその適用を誤っているといわなければならない。

(一) それでは、本件喧騒行為についての可罰的違法性を判断するにあたって、適用されるべき経験法則とは何であるか。その中味には、以下のものが含まれるべきである。

(1) 原判決が、いみじくも判示するように、浜田の労働者が、三菱銀行に対し、抗議の行動に出ることは、その動機においても、その目的においても正当であること。

(2) 本件「少額預金振込等」の集団行動は、過程四回にわたって実施されたものをも含め、抗議行動の一態様として、その行動形態自体は相当であること。

(3) 威力業務妨害罪の構成要件に該当するとされる本件喧騒行為は、原判決が正しく指摘するごとく、本件「少額預金振込等」の集団行動の一過程において、銀行側の「新規対応」なる措置によって触発された不服・抗議の表明であり、それ自体は本来抗議行動である「少額預金振込等」の集団行動に内包されるものであること。

(4) 抗議行動によって実現されようとする法益は、奪われた労働者の生存権そのものであり、抗議行動によって忍受を余儀なくされる銀行側の法益はせめて極く短時間の、かつ銀行業務の若干の遅滞程度のものであり、たとうれば前者は山よりも重く、後者は鴻毛よりも軽いこと。

(5) 一円といえども法定通貨であって、本来銀行においては、その預金振込を拒絶することは許されないこと。

(6) 三菱銀行は、原判決がいう社会通念の範囲内における忍受の具体的あかしとして、東京地方裁判所における浜田の労働者の勝利の和解のために、多額な債権を放棄したのであって、大三菱銀行とはいえ、社会的責任を果たすために放棄を余儀なくされた経済的利益は、本件喧騒行為によって忍受しなければならなかったことにより、失われた利益と比較した場合、その質においても、最においても雲泥の差があること。

(7) 三菱銀行がとった多額な債権放棄は、単に労働者側の要求によるだけでなく、東京地方裁判所破産管財人の要請でもあったこと。

(二) しかるに、原判決は可罰的違法性の判断を遵き出すための基準、すなわち経験法則の解釈を誤り、その結果、右に示した厳粛なる事実を捨象して判断の基準としなかったのであるから、経験法則の適用、すなわち法令の適用を誤ったものである。

(三) さらにまた、原判決が挙示する具体的事実だけを判断の基準としても、可罰的違法性ありと判断したことそれ自体、結局法令違反といわなければならない。

四、かくして、原判決にみられる叙上の重大なる事実の誤認および法令の違反は、いずれも判決に影響を及ぼすものであるから、原判決は破棄されなければ著しく正義に反するものである。

第六点公訴権濫用の判断に関する憲法一四条および憲法三一条の解釈・適用の誤り

一、原判決が、公訴権濫用の控訴理由について示した判断は、「検察官に委ねられた訴追裁量権は大幅なものであって、所論にもかかわらず、本件の訴追行為自体が犯罪を組成するような極限的に不当なものであるとは認められないから、原判決に本件公訴を棄却しなかった違法があるとする所論は前提を欠く」というものである。

ところで、原判決のこの考え方は、最高裁判所昭和五二年(あ)第一三五三号、昭和五五年一二月一七日第一小法廷決定(いわゆるチッソ水俣病補償請求関連傷害事件上告審決定、判例時報九八四号三七頁)が、「検察官の裁量権の逸脱が公訴の提起を無効ならしめる場合のありうることを否定することはできないが、それはたとえば公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に限られるものというべきである」と判示したものを一見受けついだもののように見受けられる。

しかし、原判決は、この最高裁の考え方とは根本的にちがうものであること、後に述べるとして、いかなる場合に公訴の提起自体が無効になるかについては、判示せず、「訴追行為自体が犯罪を組成するような極限的に不当なものであるとは認められない」として、公訴の提起自体が無効ではないといい切っているのである。

二、いうまでもなく、検察官は、公益の代表者として公訴権を行使すべき責務があり(検察庁法四条)、刑事訴訟上の権限としての公訴権もまた、「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ」(刑事訴訟法一条)「誠実にこれを行使し、濫用してはならない」(同規則一条二項)。刑訴訟二四八条(いわゆる起訴便宜主義)も、公訴権の行使にあたっての考慮事項を定めているが、それは、検察官の裁量権の恣意を許容するものではなく、公共の福祉と基本的人権の保障という視点からの羈束を受けるべきことを当然に予定しているものである。

そして、公訴権の行使が不当な「不起訴処分」であるときには、検察審査会や準起訴手続によって是正される道が制度的に保障されているのに反して、不当な「起訴処分」については、これを是正すべき刑訴法上の格別の制度はなく、裁判所の審査、抑制(公訴棄却の判決)にまつほかないのである。

こうした刑事訴訟法の定める法制からすれば、公訴の提起が公共の福祉と基本的人権の保障の視点から逸脱しているときには、一般的に、訴追裁量を逸脱した公訴の提起というべきものである。職務犯罪を構成するなどの極限的な場合に、公訴の提起自体が無効になることは、当然のこととしても、しかし、職務犯罪を構成するなどの極限的なときにのみ公訴の提起自体が無効になるというのは、吾人を納得させるものではない。確かに、公訴の提起が職務犯罪を構成するときには、この手続的不正義は、公訴を維持するに値しない不正義というべきであろう。しかし、公訴の提起を無効ならしめるのは、職務犯罪を構成するという「形式」のゆえに、ではなく、職務犯罪を構成するという、社会的不合理性、社会的非妥当性の「実質」(社会的不正義)のゆえである。訴追裁量の逸脱の程度が著しい場合であるというべきである。

それは、たとえば

(イ) 極めて軽微な被疑事実であって当然に起訴猶子となるべき事案であるのに起訴されたとき

(ロ) 被疑事実が必ずしも重大であるとはいえないうえ、その背景事情を考慮すれば、訴追に著しく社会的合理性を欠いているとき

(ハ) 被疑事実が必ずしも重大であるとはいえないうえ、被告人のみが、ねらいうち的に、差別的に訴追されたとき

(ニ) 犯罪の軽重を問わず、訴追が職務犯罪を構成するとき

などである。このような場合には、公共の福祉と基本的人権の保障という立場からみて、訴追裁量は合理的裁量基準を逸脱し、公訴の提起自体が無効になるといわなければなるまい。

三、ところで、前叙の最高裁第一小法廷決定は「それは、たとえば」と慎重な表現をとりつつ、その例示の一つとして、「職務犯罪を構成するような極限的な場合」をあげたに過ぎないのである。

ところが、原判決は、最高裁のいう例示のそれのみを基準にして、これにあたらないという認定をして、「公訴を棄却しなかった違法があるとする所論は前提を欠く」と判断しているのである。

言いまわしは似ているが、彼我の考え方は、根本的にちがっているといわざるを得ない。

最高裁第一小法廷は、社会的不正義の実質をみつつ、一例をあげたものなのであるから、本件について、弁護人らが第一審以来くりかえしくりかえし主張してきた公訴権濫用の事実が、「職務犯罪を構成するような極限的な場合」と同視しうる、社会的不正義の実質を有するかどうか、そのことが、原判決の判断すべき課題であったのであり、「犯罪を組成するような極限的に不当なものであるとは認められない」というだけでは、公訴を無効ならしめる一事例にあたらないといっているに過ぎないのである。

従って、公訴権濫用に関する原判決の判断は、最高裁判所に違背し、ひいては、憲法三一条の法廷手続の保障の解釈適用を誤ったものというほかない。

四、つぎに弁護人らの主張した公訴権濫用の骨子は、

(1) 本来合法的手段である振込カンパ活動を違法視し

(2) 警察と三菱銀行が一体となって、被告人らの行為を何ら制止、警告することもなく放置し、あげくのはて挑発的行為まで行って、銀行内を騒然とさせ、「おとり捜査」的に犯罪をつくりあげ

(3) しかも、被告人を狙いうちにした点で、差別的なものであるなどである。要するに、本件は、捜査の当初から訴追に至る全過程が、職権濫用の疑いの濃厚なものである。

しかるに、原判決は、公訴権濫用の法理に関する判断を誤っただけではなく、もともと、本件公訴の提起が憲法一四条、三一条に違反する公訴として、公訴権の濫用による無効の実案として公訴棄却すべきものであるのに、右事実の認定を誤ったのである。

この事実の誤認は判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認であって原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものというべきである。

以上

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